500年の歴史をもつ曹洞宗の古刹で、これからのお寺のあり方と地域の結びつきを考えたい/村上市


2024年03月15日 1860ビュー
村上市郊外の大場沢に建つ「大葉山 普済寺」は、室町時代より500年近くにわたって守り継がれてきた古刹。四季折々に表情を変える日本庭園は、庭園街道のコースの一つとして、(公社)新潟県観光協会が実施した「新潟県観光PRアイデアコンテスト2017」で最優秀賞を受賞。2019年から始まった国交省のガーデンツーリズム制度「にいがた庭園街道」にも名を連ね、多くの参拝客が訪れます。3年ほど前に実家である普済寺に戻り、副住職を務めながら地域の活動にも力を入れる角一大樹さんに、寺の歴史や魅力と地域への想いなどを伺いました。
角一 大樹
1980年、村上市生まれ。長岡高専から長岡技術科学大学へ進学し、大学院まで環境問題を専攻。卒業後は5年ほど技術職として働いた後、かねてからの夢だったJICA青年海外協力隊の一員として中南米のエルサルバドルへ2年間赴任する。帰国後、四国八十八箇所の札所を巡礼。その後、瑞應寺専門僧堂(愛媛県)や永平寺本山僧堂(福井県)などで雲水として10年余り修行を積み、2020年に実家である村上市へUターン、普済寺の副住職として働きはじめる。

守り継がれた歴史と季節を感じられる庭園

―500年近くの歴史をもつお寺だそうですね。

普済寺は、室町時代の1527(大永7)年に創建されたお寺です。
当時、阿賀北衆(揚北衆とも表記)と呼ばれた阿賀野川以北の豪族のひとりであった鮎川清長公の菩提寺として建てられたそうです。

ご開山として耕雲寺8世の固剛宗厳(こごうそうごん)和尚を招き、最盛期には、伽藍お堂が16もある地域の有力な寺院だったと記録されています。
江戸時代末期の1856(安政3)年に火災で堂宇すべてを焼失し、現在の本堂と庫裡を1863(文久3)年に再建しています。

本堂には、村上が生んだ名工・有磯周斎(ありいそしゅうさい)が描いたとされる龍や鳳凰、麒麟、獅子など12枚の天井画が残されていて、ほかにはないみどころの一つとなっています。有磯周斎は、村上の宮大工の家に生まれ、江戸で彫刻を学ぶかたわら堆朱・堆黒などの技法も習得し、村上堆朱・堆黒の基礎を築いた人物です。
本堂の天井画。躍動感あふれる筆致に目を奪われる
また普済寺のお像は、有磯周斎の流れを汲む仏師によって造られたものです。江戸時代の終わりから昭和の初期にかけて村上地方には優れた職能集団が活躍していました。現在では失われてしまった技術もたくさんありますが、普済寺では近々このお像の修復を計画しています。修復に向けて、こちらのお像は今だけ間近に見ることが出来ますので、村上の歴史などに興味がある方は来ていただきたいですね。
信仰の対象として守り伝えられてきたお像。村上の仏師、中野甚吉作
―山の斜面を活かした庭園がみごとですね。

現住職でわたしの実父である角一覚隆(かくりゅう)が普済寺に来た頃には、石一つなかったそうです。住職は、跡継ぎのなかった普済寺に縁あって1979(昭和54)年に私の母と2人で入寺しました。建物もひどく傷んでいて、いま庭園となっている裏山は、斜面のいたるところから水が浸み出していて沼のようだったそうです。

新発田市五十公野の庭師、遠藤太一さんを紹介してくださる方があり、裏山の土留めのために庭造りを依頼したそうです。父が若い頃は、庭師さんと一緒に石や土を運んだり、木を植栽したりしていた姿をよく覚えています。約40年かけて今の庭を造り上げたことを自慢にしていますね。

遠藤さんは京都で修業を積まれて、かれこれ半世紀も庭づくり一筋の名匠です。現在は新発田農業高校の造園マイスターとして後進の育成にも携わり、国の『瑞宝単光章』も受章されました。
階段脇や参道の両側、主庭などを合わせ、全体で1000トン近い石が配置されている
庭園内には何十種類もの山野草や、ホタルなどさまざまな生物が生息する
本堂の縁側から主庭の池泉回遊式庭園を臨む。滝の石組みや奥行ある庭の造りが壮観
―国交省のガーデンツーリズム「にいがた庭園街道」にも参加されています。

「にいがた庭園街道」は、豪農や豪商の方たちが残した邸宅、寺院・町屋などの伝統建築と日本庭園が集中している全長150kmにおよぶ街道です。2019年に国土交通省ガーデンツーリズム制度に認証登録され、街道沿いには国指定名勝や国登録有形文化財も数多く点在し、見どころいっぱいの街道となっています。

ここに参加させていただき、おかげ様で多くの方々が訪れてくださるようになりました。

環境問題を学び、異文化を体験してたどり着いたお寺での暮らし

―子どもの頃からお寺を継ごうと決めていらしたのでしょうか?

生まれた家が寺だったので、小さいときから自然に寺の仕事を手伝っていましたし、長男なので漠然と「いつかは跡を継ぐのかなあ」とは思っていました。でも、若い頃は外の世界に興味があって、どこでもいいから遠くへ行きたいという願望がありました。

ちょうど1970~80年代頃は公害が社会問題化しはじめた頃で、「環境についてもっと深く勉強できたらいいな」と考えるようになり、中学卒業後は長岡高専に進学し、5年間寮暮らしをしました。

その後、長岡技術科学大学へ進学。大学では遺伝子工学を専攻して、微生物を扱ったりしていましたね。大学卒業後は燕三条の企業に就職し、工場の技術職として品質管理や技術開発、排水の管理などに携わっていましたが、どうしても挑戦したいことがあって、5年ほどで退職しました。


―どのようなことに挑戦したのでしょうか?

実は、高校時代から青年海外協力隊にずっと憧れていて、在学中に一度試験を受けたのですが、落ちてしまって。それでもあきらめきれず、30歳手前で再挑戦。今度はなんとか合格して、中南米のエルサルバドルで2年間、活動をしてきました。

環境教育という分野の隊員として現地に赴任し、町のごみ処理関係の手伝いということで市役所に配属され、おもに小学校や中学校でゴミの分別などについての啓蒙活動をしていました。楽しかったですね。

エルサルバドルは日本の四国くらいの大きさの国で、私が赴任したのは「ベルリン市」という小さな町です。スペインの植民地時代にドイツ出身の実業家によってつくられたコロニアル式の街並みが特徴で、中央に教会と市役所があり、そこから碁盤の目のように街路が整備されています。任期中はホームステイをしていました。
ホストファミリーに囲まれる角一さん(右から二番目)と協力隊の同期(左端)
地域の女性グループと研修を行う
ベルリン市の学校で子どもたちに教える
市役所の同僚に日本のカレーを作ってふるまう
―帰国されてからは、どのように?

任期を終えてお正月頃にこちらに戻ってきたのですが、エルサルバドルで過ごした2年間がとても充実していたので、実は、帰国して少しロスになってしまいました。
特に何をするということもなくダラダラ過ごしていたら、「これからどうするつもりなのか」と親が心配して、家族会議が開かれまして(笑)。

協力隊として赴任する直前は、半年ほど愛媛県にある瑞應寺で修行していて、帰国したらまた道場に戻るつもりでいました。
ただ、修行に入る時期は春と秋の2回と決まっているので、秋に道場に入るまで少し余裕があり、その間に四国八十八箇所の札所を巡礼してみようと思い立ったんです。


―次なる挑戦は四国巡礼だったのですね。

そうなんです。これがその当時のちょっと弱っている自分にとって、とても良い効果がありました。四国の巡礼は、小さな成功体験の積み重ねだったと思います。テントを担いで、すべて歩いて回ったのですが、朝起きたらその日の目的地を自分で決めて、その札所をめざして歩き出すわけです。毎日そうやって目標を達成していく。その行為が自分を取り戻すことに役立ちました。

ずっと野宿をしていたので、最初は肉体的にもたいへんでした。コンロや寝袋、テントなどで荷物が17キロくらいあったんですが、すぐに「こんな重いモノを持って歩くのは無理だ」と気づいて、どんどん荷物を減らしていきました。着替えもパンツが1~2枚あれば、夜に洗って、昼間はぶら下げて干しながら歩けばいいので。そうやってだんだん荷物を減らして、余計なものをそぎ落としていく作業が、またよかったですね。

巡礼でいちばん印象に残っているのは、歩いている私に向かって手を合わせてくれる人がいたことです。私は、ただ自分が好きで歩いているだけなんですが、そんな自分の姿を見て手を合わせてくれる。これはびっくりする体験でしたね。
四国八十八箇所の札所を巡礼していた頃の角一さん。多くの人々との出逢いがあった
―その後、修行に入られたんですね。

愛媛の道場には10年弱いました。愛媛の瑞應寺、福井県の永平寺、ほかにもいくつかのお寺で修行をして、3年ほど前に村上へ戻ってきました。

よくお檀家さんなどから「修行は厳しいでしょう?」と聞かれることがあります。修行中は、朝早く起きなければいけないし、集団生活でプライバシーはありません。スマートフォンやテレビももちろんないですし、自由な時間がもてるわけではないので、確かに厳しい生活です。でも、私には水が合っていたようで、気がつけば10年間も経ってしまいました。

日々やることが決められていて思い迷う余地がなく、外部からの余計な情報に煩わされる必要もなく、逆に守られているという安心感があったんですね。そして同時に、必要とされている、求められていたという実感がありました。それはすごく大事なことですね。
道場の食事の準備も当番制。肉や魚を用いない野菜中心の食事は修行当初は物足りなく、なかなか慣れなかった
ぎんなんを洗う角一さん(左)と修行仲間。寝食を共にすることは一生の絆になる
―普済寺での今の暮らしはいかがですか?

基本的に、道場とあまり変わらない暮らしをするように気をつけています。朝は5時頃に起床。住職は朝の5時~6時まで坐禅を組みますので、その間に食事の準備をして、6時から朝のお経。その後、一緒に食事をいただき、お檀家さんの法事などがなければ、家事全般と境内の清掃をして過ごします。

檀家さんとのつき合いは、たいへんなこともありますが楽しいですね。ここで生まれ育っているので、よく知っている方が多く、かわいがっていただいています。

先代の普済寺の住職には跡継ぎがなかったため、今の住職である私の父に声がかかって、昭和54年にここへ来ました。その時にはもう先代の住職は具合が悪く、間もなく亡くなられてしまいましたので、現住職はすべて自分で考えてやってきたようです。庭を造ったこともその一つですね。

“菩提寺”として、心の拠りどころになれるように

―副住職として想うことは?

今はいろいろなイベントなども行っていて、地域外からも多くの方にお越しいただけるようになりました。しかし、根本には「お檀家さんを大事にしたい」という想いがあります。私が心がけているのは、「菩提寺としての普済寺」ということですね。

普済寺はもうすぐ開創500年を迎えますが、今まで守られてきたというのはすごいことだと思います。このご縁を次の世代につないでいきたいですね。

とはいえ、世間では宗教離れが問題になっています。離れていく方がいるのは仕方がないことだと思うんですが、一方で心の拠りどころを必要としている人もいます。そのような方がおられる限りは、柱一本でも守り伝えて、後世に遺していきたいなあと考えています。
「必要としている人たちの拠りどころとなれるように」と語る
―具体的にはどのようなことを?

現住職は、お檀家さんやほかのお客さまが見えられると、お茶を出してお話しをしています。そういう時間は大事にしていきたいですね。

また、坐禅会も開催していて、どなたでも自由に参加していただけます。「ハマナスの会」という、村上地域で暮らす外国の方に日本語のサポートをしているボランティア団体があるのですが、先日は、そちらの生徒さんやサポーターの方たちが一緒に坐禅を体験されていきました。中国やドイツの方などがいらっしゃいましたね。

ほかにも、「カレイドスクエアパーク村上」という村上市の障がい者児童施設の子どもさんたちが見えたこともあります。多動性のお子さんもいましたが、坐禅の間は静かにしていたと職員の方がおっしゃっていました。

今は、瞑想やヨガが流行っているようですが、実は、一般的な意味の瞑想やヨガと宗教的な坐禅は違うんですよ。瞑想にしろ、ヨガにしろ、自分のために行いますよね。自分の健康のためだとか、心を落ち着かせるためだとか。でも、坐禅は自分のために行うものではありません。仏様というものが中心にあるわけで、そこが違っています。
坐禅会やさまざまなイベントなどで開かれたお寺に
―地元の方々とのふれあいも多いのですね。

私自身は、何か特別な活動をしているわけではありません。ただ、普済寺のコミュニティというか、つながりを広げて、何とかここを遺していけるようにしたいという気持ちでいます。

中学校の座談会にゲストティーチャーとして招かれたことがあったんですが、その中で、ある中学生から「お寺って何ですか?」という質問が出たんですよ。深いところを突いてきたなあと思いながら、「おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなったら、お参りをしようという気持ちがあると思う。その気持ちをかたちとしてあらわす場所がお寺なんだよ」という話をしました。このような喩えは仏教の一面でしかありませんが。

曹洞宗はかたちを大事にする宗派です。食事作法とか、坐禅の作法、法事やお葬式もそうですね。かたちがないと、私たちは気持ちをうまく表すことができないと思うんです。手を合わせるとか、お墓とか、位牌とか。今は散骨やゼロ葬など遺骨を跡形もなく処分してしまうこともあるようですが、はたして対象がなくても気持ちを向けることができるのか、疑問に思いますね。


―お寺の役割は深いものがあると。

もう一つ座談会で驚いたことがあったのですが、中学3年生10人くらいのグループで、「将来も村上で暮らしたいと思う人はいますか」と質問したら、「暮らしたい」と答えた生徒がたった一人しかいなかったんですよ。ここから出ていきたいと思う子が多い。「それでは、どこで暮らしたいですか」と聞くと、やはり「都会へ行きたい」と。欲しいものがあるときに、すぐにアクセスできる場所で暮らしたいということでした。

若いうちは生まれ故郷から出ていきたいと思うのでしょう。私もそうでした。でも、帰ってくる場所がなくなってしまうのは寂しい。外の世界に出てから気づくこともあります。いつか戻ってきたくなるような、いつでも安心して帰ることができる街づくりを考えていかなければいけないだろうなと思っています。

私がここへ戻ってくることを決めたのは、住職から「ここへ戻ってきて、寺や地域を守り継いでいってほしい」と言われたのが大きな理由です。そういう使命感みたいなもの。しかし、戻って来てみれば、「お寺って何?」という中学生の質問にもつながるわけですが、お寺が必要とされているのかどうか、そこはすごく考えますね。

日本の場合、仏教はもちろん宗教ではありますが、信仰というよりは、どちらかというと家に伝わっている習慣という意味合いが大きい。菩提寺と檀家、つまりお寺と家という結びつきが強いので、家という単位がなくなったとき、今までのお寺は必要とされなくなるのかもしれません。
寺の周りは散策コースに。大葉澤城跡へと続く
―寺を訪れていただくきっかけづくりも大切にされています。

江戸時代には、お寺は村の役所のような役割があって、戸籍を管理し、人の往来や宗教を管理していましたし、寺子屋で習字やそろばんを教えたり、遊び場になっていたりして、おとなも子どもも自然と集まる居場所としての役割もありました。今では、おとなも法事がなければ用はないし、子どもたちがお寺を訪れる機会は本当に少なくなってしまいましたね。

誰でも気軽にお寺を訪れていただけるよう、庭園は常に開放していて自由に観ていただけますし、お茶席や精進料理の集い、ライブ演奏や雑貨市など、さまざまなイベントも開催しています。イベントに合わせて、お檀家さんにとち餅やコンニャクを販売してもらったりもしていました。
看板犬の梵ちゃんも人気。わざわざ会いに訪れるファンも多いとか
境内にはペットの供養塔も新設した
―お休みの日はどんなふうに過ごしていらっしゃいますか?

骨董市に出かけたり、伝統工芸の職人さんに会いに行ったりすることが好きですね。村上市には、村上木彫堆朱をはじめとするすぐれた工芸品があります。人の手から紡ぎ出されるモノは、独特の温かみがありますね。


―地元のおすすめスポットを教えてください。

「上野(かみの)遺跡」がおすすめです。とても景色のよいところなんですよ。普段、一般の方は立ち入りできない場所なのですが、発掘のお仕事をされているお檀家さんに教えていただいて、一般公開日に訪れました。三面川の支流である高根川右岸の扇状地の上にあって、遺跡から村上の方に向かって広がる景色がすばらしかったですね。

大場沢集落の「鈴木豆腐店」さんもおすすめです。昔ながらのお豆腐屋さんで、しっかりとした味のお豆腐と、ちょっと厚めの薄揚げ、それから油揚げを必ず買いますね。その鈴木豆腐店のお嬢さんが、村上駅前でカフェをされています。お店の名前は「Dayis(デイズ)」というのですが、お豆腐の原料の大豆をなまって「でぇず」というのと掛けているそうです。ソフトクリームがおいしいですよ。
「絹ごしと木綿ごしの中間くらい」という鈴木豆腐店の豆腐。風味豊かでもっちり、適度な固さがあり煮崩れしにくいのが特徴とか。手前から、豆腐(190円)、油揚げ(180円)、薄揚げ(190円)。
カフェ&ダイニング「Dayis」の看板メニュー、「半丁丸ごと麻婆豆腐」(800円)。しっかりとした豆腐の食感が堪能できる。ほかにも「豆腐寄せ」、「豆乳ようかん」など実家の豆腐を使ったメニューも多い。
ジョン・レノンが絶賛したというソフトクリーム、「ロイヤルスイートバニラ」(490円)。新潟県内で食べられるのは、この店だけ!
癒やしのスポットは、手前味噌ですが普済寺です。ぜひ皆さんに四季折々ゆっくりとお参りいただいて、お茶でも飲みながらお話ししたいものですね。
曹洞宗 大葉山 普済寺

曹洞宗 大葉山 普済寺

村上市大場沢1847
0254-72-1974

上野遺跡

上野遺跡

村上市猿沢・檜原地内

高根川右岸の扇状地の上に位置する、約4,000年前、縄文時代後期前葉の集落(ムラ)の遺跡。2023年現在、7回目の調査を行っている。一般公開日以外は立入り不可。

問い合わせ/新潟県埋蔵文化財センター

にいがた庭園街道

にいがた庭園街道ネットワーク
事務局/村上商工会議所
村上市小町4-10
0254-53-4257

鈴木豆腐店

鈴木豆腐店

村上市大場沢1740-2
0254-72-1116
不定休

Café&Dining Dayis

Café&Dining Dayis

村上市山居町1-13-28
0254-57-1032
営業/11:00~14:00、18:00~21:00
定休日/火曜

この記事を書いた人
新発田地域振興局 魅力見つけ隊

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