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ホーム > 新潟の見どころ > 新潟の歴史と文化 > 河井継之助

新潟の歴史と文化

新潟には、全国に誇れる多彩な歴史と文化があります。郷土の英雄や偉人、連綿と受け継がれてきた文化的・芸術的に優れた財産。
新潟にゆかりのある歴史的人物、文化的財産についてご紹介します。

歴史上の人物:河井継之助

河井継之助
河井継之助

戊辰戦争、河井継之助と小林虎三郎

慶応4年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、関東、東北、さらには北海道にまで波及し、まさに1年5か月にわたる大内乱となった。とりわけ長岡藩は、官軍から北越最強の敵とマークされていた。
長岡藩軍事総督河井継之助は、官軍と旧幕軍の間にあって、平和裡に事態を収拾する意図であった。このため河井総督は、小千谷の慈眼寺に官軍軍官岩村精一郎をたずね、長岡藩の真意を説いて、直ちに兵を進めないよう嘆願した。しかし「官軍に降伏しない藩はすべて朝敵」という岩村に、すべてが徒労に終わった。
長岡藩は大軍を率いた官軍と戊辰戦争最大の激戦をくり返し、一度は官軍の手に落ちた長岡城を奪回した。だが、長岡勢が城をもちこたえたのは4日に過ぎず、長岡の町は焦土と化した。蒼紫神社脇の招魂社には、この戦いで散った軍事総督河井継之助、大隊長山本帯刀をはじめ309名の霊がまつられている。
小林虎三郎は、戊辰戦争のとき非戦論者で河井に反対したが受け入れられず、敗戦後は長岡復興に努力した。特に、支藩三根山藩から送られた救援米百俵を「食えないからこそ学校を建てるのだ」といって、その費用をまわした話は山本有三の戯曲「米百俵」で全国的に有名である。

観光コース

日本互尊社(如是蔵博物館)

米百俵の碑

河井継之助邸跡

興国寺(小林虎三郎の墓)

西福寺(維新の暁鐘)

明治戊辰戦跡顕彰碑

栄涼寺(河井継之助の墓)

普済寺(少年隊士在名碑)


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